人工シルクの誕生:アメリカ化学産業と黎明期のデュポン社

人工シルクの誕生

デュポン社の歴史は、フランスの科学者アントワーヌ・ラヴォアジエとの繋がりからはじまりました。彼は化学を正確な科学に変えた最初の人物でした。

ここではデュポン家がフランスで化学にアプローチするようになった経緯と、フランス革命を経て同家がアメリカへ移住してからデュポン社を創業するにいたった流れをたどっています。

中世的化学

ランモット・デュポンは1944年にこう書きました。

「18世紀には、少数の例外をのぞいて、化学者は薬屋にすぎませんでした。化学は偉大な科学であるどころか、科学というにはほど遠いものでした。化学は矛盾と偏見に満ちていました。その考え方は徹底的に中世的で、神秘主義と魔術の寄せ集めだったのです」。

アントワーヌ・ラヴォアジエとデュポン家

アントワーヌ・ラヴォアジエ

アントワーヌ・ラヴォアジエは、化学を正確な科学に変えた最初の人物です。

物質を定量的に分析する画期的な手法を考案し、時間もお金も惜しまず設備を整えました。デュポン社とラヴォアジエとのつながりは、のちに巨大な化学企業の基礎をきずきました。

エッソンにあるフランス政府の火薬製造工場の監督官であったラヴォアジエは、旧友ピエール・サミュエル・デュポンの息子(エレウテール・イレネ・デュポン)を弟子に指名しました。

エレウテール・イレネ・デュポン

エレウテール・イレネ・デュポンは本能と生来の科学者であり、化学の知識を完全に習得することに情熱を燃やしていました。

エレウテールは、ラヴォアジエから高級火薬の製造技術を学びました。ラヴォアジエの著作『化学原論』は、フランス革命の年である1789年に出版されました。

フランス革命

テロルの時代には政治が不安定になり、フランスはあらゆる知識人にとって危険な場所となりました。ラヴォアジエと彼の妻は過酷な運命に見舞われ、1790年に残酷なギロチンにかけられました。

著名な画家ジャック・ルイ・ダヴィッドは1788年にラヴォアジエ夫妻を描きましたが、のちに革命会議のメンバーとして夫婦の死刑執行令状に署名することになりました。

「フランスには科学者は必要ない」とマクシミリアン・ロベスピエールは宣言しました。

ピエール・サミュエル・デュポンは、作家であり出版人でしたが、王政復古の大義を支持しました。

1799年、革命の暴徒によって自宅と印刷工場が破壊されたとき、ピエールはフランスとヌムールの領地の両方を放棄することを決意。血なまぐさい革命の生き残りにとって、生まれたばかりの共和国ほどふさわしい行き先があるでしょうか。

デュポン社の創業

ピエール・サミュエル・デュポン

ピエール・サミュエル・デュポンは、持ち物のなかに4,000冊の蔵書(家族全員の蔵書よりも輸送費がかかった)を持ち込みました。

1800年1月1日に米国ニュージャージーに上陸したデュポン家は、その後アメリカを代表する一族となり、デュポン社はアメリカを代表する企業のひとつとなりました。

デュポン家の人脈

デュポン家は人脈に恵まれていました。

トーマス・ジェファーソンは家族の友人であり、ヌムールにある彼らの屋敷を訪れたこともありました。ジェファーソンは1802年にE.L.デュポンの火薬製造事業の設立を奨励し援助しました。

当時のアメリカは「貪欲で、粗野で、厳格で、しかも火薬や爆薬を供給する手段を実質的にもたない」国でした。火薬や爆薬を製造するために組織された工場や製造所はなく、わずかな火薬や爆薬は、かつて人々が自分の家で鉛の弾丸を作っていたのと同じように、手づくりを基本としていました。

見わたしたところ、デュポン夫妻は、この地の人々にとってまったく未知の性質の爆薬を製造する絶好の機会が与えられていると気づいたのです。

デュポン社の創業

アメリカ最初の巨大産業帝国デュポン社は、ジョージ・ワシントンにとって最初の州となったデラウェア州にありました。

ウィルミントン近郊のブランディワイン・クリークを見下ろす急勾配の青い花崗岩の丘の中腹に、E.I.デュポンが1803年に建てたフランス風の邸宅が今も建っています。

労働者とリスクを分かちあうデュポンの哲学に則り、この邸宅はかつて黒色火薬製造工場があった場所にそびえ立ち、文字どおりデュポン自身の火薬樽の上に建てられています。デュポン一家はここから、眼下で頻発する爆発で窓ガラスが割れるような爆風を目撃し、体験しました。このような恐ろしい出来事には、家の女性たちは二次的な爆発から逃れるために野原に駆け出したものです。

デュポン社は当初、140人の従業員(ほとんどがアイルランドからの移民労働者)を雇用し、彼らは家族とともに火薬工場周辺の緊密なコミュニティで暮らしていました。数キロ以上にも及ぶ粉末製造棟は、爆発時の被害を軽減するために十分な間隔がとられ、各棟で働くのは一度に2人だけでした。

当初から安全規制はとても厳しく、火花を発生させる金属をはじめ、マッチも工場の近くでは絶対に禁止され、火薬工は衣服の留め具に木製のボタンしか使えず、靴も釘ではなく木製のペグで作ったものを履いていました。

創業時のアメリカ社会

19世紀には、アルフレッド・ノーベルがニトログリセリンをコロジオン綿と組み合わせてダイナマイトと名づけた爆発性の高いゼラチンを作ることを発見し、その需要は高まっていました。

ちょうど、米国が文字どおり西へ西へと拡大し、鉱山や山を切り開き、鉄道、道路敷設、トンネル、都市の基礎を築いて、未来を切り開こうとしていた時代です。開拓者とアメリカ先住民の間で戦いが繰り広げられ、南北戦争が国を二分し、開拓者たちは食料と皮のために動物を撃ち殺すことを生業としていました。

デュポン社は、世界最大の黒色火薬メーカーになるための絶好の位置にあり、ダイナマイト、砲弾、弾丸、レミントン散弾銃、その他さまざまな国産製品を製造する巨大企業へと発展しました。ついでに、クレー射撃のスポンサーにもなりました。

ポジティブ・イメージの広告戦略

デュポン社は創業初期から、製品にポジティブなイメージを与える重要性を理解していて、火薬類も例外ではありませんでした。

1911年には宣伝部が、1916年には広報局が発足。

この時期に出版された資料には、火薬の多様で平和的な用途が示されています。

樹木を素早く伐採し、畑を耕し、丸太をスムーズに割るには、火薬で吹き飛ばすのが手っ取り早い。溝もダイナマイトで簡単に掘削でき、果樹の植え付けや栽培にもダイナマイトが推奨されました。

ダイナマイトは、生命を消滅させるのではなく、むしろ向上させることを目的とした爆薬であることを、同社は積極的にアピールしていったのです。

第一次世界大戦のわずか2年前に残酷な皮肉を込めて出版された社史には、次のように記されています。

「戦争をなくすことは、啓発された当代の揺るぎない目的です。おそらく、高強力爆薬の発明ほど平和を実現する大きな力はないでしょう。現在、デュポン社の生産量のうち軍事目的に使用されているのは10パーセントにも満たず、爆薬の大部分は、厳密に商業的な目的で使用されています。ダイナマイトと発破火薬ほど文明を発展させる力はありません」。

第一次世界大戦による軍需

1913年に、デュポン社の火薬の95%以上が非軍事用として使用されましたが、1年も経たないうちに、デュポンの無煙火薬工場は、装備の整ったドイツ軍に対応するため、火薬の増産を求める連合国側の必死の嘆願に丸め込まれました。

自社工場での雇用は、1914年の5,500人から1918年には55,000人以上に増加。1916年までに、英国軍需委員会のヘドラム将軍は、デュポン社が「英国軍を救った」と評価しました。

第一次世界大戦の終結までに、デュポン社は連合国側で使用された標準的な爆薬の40%以上を供給し、さらに数百万ポンド相当の特殊な爆薬、キャップ、信管を供給しました。爆薬の需要が加速するにつれ、必然的に社運も隆盛を極めていきました。

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